水竜クーと虹のかけら

第一部・03−04 「それぞれの戦いC 不幸な者達の戦い」
トップへ戻る

 



 黒、それはけがれた色。

 汗にまみれ、どろに汚れ、血によどみ、そして心をゆがませる。
 …それらはざり合い、濃さを増し、やがてけがれとなっていく。

 そういったけがれが積み重なり、全ての色は黒へと変わる。
 純真じゅんしん無垢むくな心ですら、まじわればいつかは黒く染まり、悪しき心へと変貌へんぼうしていく。

 黒とはけがれた色。
 このラファイナでは、黒をまとう者はけがれの象徴を意味していた。

 それは彼らの姿から自然と名づけられたのだ。
 黒とは、この地で最下層を生きる人間「奴隷どれい」を意味する色である。



 …ラファイナ発展のため、旧ラファイナ王家が近隣の島々を侵略し、領地を拡大したのは今から100年もの昔。
 資源の確保は、これから発展しようとしている国家というものには当然必要なものである。

 それまで何事もなく島で平穏に暮らしていたそれぞれの島民は、圧倒的な武力によって蹂躙じゅうりんされ、土地を追われ、そのまま労働力として最低下層地位の人間、つまり「奴隷」という扱いをいられる。弱者は強者によってその自由をうばわれるのは当然のことわり。それぞれがつちかい、いとなんできた暮らしは、尊重そんちょうされる事無くラファイナの様式へとりつぶされる。それが歴史の流れというものだ。

 そして、不幸な運命を辿たどる彼らには過酷な労働がせられ、誰もが年齢を問わず、すりつぶされるかのように酷使こくしされ、過労死をむかえる頃には、ほとんどの者は黒く染まっていたという。汗や血、泥や涙といった不特定の要素が服や体に染み込んだ事で、腐臭ふしゅうにも似た悪臭を放ち、やがて黒くなって捨てられる。

 そこに人権などというものはない。
 奴隷となった者は、人が持つべき全ての尊厳そんげんを奪われ、無残な姿をさらして、


 死ぬしかないのだ。
















「お許しを! ああ、お許しを!」
 助けをうのは年老いた老人。ラファイナでは見慣れない服を身につけた、体の細い老人である。その身体に容赦なく打ち据えられるむちは、ピシリピシリと高い音を上げて、肉と皮とが奏でる音色で呻吟しんぎんを彩る。それはあわれな悲鳴と共に、何度も何度も周囲へと響き渡る。

「ふざけやがって! 奴隷のくせに口答えしてんじゃねえっ!」
 筋骨逞しい監視の男が鞭を振り上げ、老人を叩き続ける。周囲には多くの者がいるのだが、誰一人として老人を助けようという者はいなかった。目を背け、顔を沈め、聞こえないようにと知らないふりをする。いや、関わらないようにとしている。とばっちりを受ける事を恐れているからだ。
 体へと打ちつける鞭から身体に走る赤い線。それは血と傷によるもの。至るところに傷を負い、手酷(ひど)く痛めつけられた老人はやがて抵抗する事もできなくなったようで、手で身を覆う力さえも失い、地へと転がった。


「…水を…くれ! 水を…くれぇ…。」
「黙っていろ! 水ならそこに水溜りがあるだろうが。昨日の雨に感謝するんだな。泥が混じってたって死にゃしねぇよ。」
 一方では、水を求める奴隷の若者が、監視の男に蹴り飛ばされて転がる。

「子供に食べものを…、どうか、この子に食べ物を!」
 女が抱くのはまだ小さな子供。ようやく乳飲み子を離れたばかりの、抱きかかえる事のできる子供であった。しかし、その身体は痩せ細り、頬はこけて生気がない。すでに何日もマトモな食事を取っていないようだ。
 しかし、答えは鞭で返される。女を打ちすえ、そして子供までが鞭を喰らう。意見を出す事は許されない。要望を口にする事さえ許されない。彼らは人ではない。人権など存在しない家畜と同様であり、人語の理解できる労働力でしかないのだ。



「これが…、奴隷市場…。」
 その光景を目の当たりにし、一人の娘が目を疑い、震えていた。
 新しく水竜神殿の司祭となったマリア=ヒリアスの眼前に広がるそれは、これまでの価値観を根底からくつがえすかのような光景だった。

 人間が山となって地べたへ座り、その誰もが鎖で手足を拘束されている。
 男女を問わず、老いも若かきも問わず、あらゆる人間が集っていた。

 そこには、数えきれぬほどの者達が居るというのに不気味な程に静かで、活気に値するものがない。
 汚れた服をまとった奴隷達は黒ずみ、手入れされる事のない髪が放置されている。気にかける者すらいない。

 そして、何よりも耐え難いのは悪臭である。
 汚れを落とす人権さえない彼ら奴隷達。…だが、生きている以上は汚れていく。しかしそれを拭う事ができない。拭うべき手段がないのだ。だから汚れたまま放置され、服も身体も黒ずんでいく…。
 そもそも水は高価なもの。生きる以上に使える水など与えられるはずもない。使い潰すだけの労働力に、汚れや衛生などを気遣う者など一人もいないのだ。奴隷とは、はそう使われて当然の”ただの道具”なのであった。

「ガクリフ大司祭! このラファイナでは奴隷禁止のお触れが出ていたはずです! これは一体…?」
 マリアも奴隷を見た事はある。しかし、それは彼女が幼い頃の事、過去での事だ。

 現女王イメルザ即位より15年余。ラファイナでは奴隷を使役する事は罪とされてきたため、マリアは幼少期に奴隷を見た以上の記憶がない。それにイメルザの住む王都周辺で、外界の穢れとは縁の薄い神殿暮らしをしていたのだから、奴隷という文化がある事にさえ鈍感であった。忘却し、考える必要のないほどに、彼女の周囲にその影はなかったのだ。

 確かに、王都には宿無しの者も居る。生活弱者も居る。しかし、目の前にいる奴隷達のように、諦念に囚われ、人の尊厳までも否定される存在ではなかったのだ。それどころか、このように束になって売買されているという事実が、未だ現実のものとさえ思えないでいる。

「マリア司祭、これが現実だという事なのだよ。王都ガルドという陛下の膝元を離れれば、奴隷売買は少しも減ってはいない。」
 こちらを向く事無く正面を見据えながら、ガクリフは言う。水竜神殿の最高責任者、大司祭の役職を持つ神官である。司祭となるマリアにラファイナの現状を理解させるため、王都より離れたラファイナ中東部沿岸の街「メイザー」へと足を運んだのだ。

 ここでは奴隷売買が盛んに行われている。近年、奴隷解放戦争の起こった旧エイレア島、現在は独立を勝ち取ったエンジェランドより、公然の秘密として奴隷となる人間が流されてくるからだ。

 奴隷解放を掲げて戦ったエンジェランドより、なぜ奴隷が出るのか? それはその多くが罪人だからである。元は権力者であった者達とその家族が、今度は逆の立場として売られてくるのだ。
 また、独立した事で、それを商売や食い扶持ふち、つまりチャンスとしてとらえる者も多く、有象無象の者達がかの島に流れていくため、島の許容を大きく超え、あぶれた者が生活の糧を得るために自ら奴隷となるケースもあった。

 エンジェランドも革命により政権が変わったとはいえ、たった十数年では体制が整える事もままならず、大量の難民に頭を抱えている始末だ。奴隷解放を掲げた国が、人をまかないきれずに外に出すには、それ選択肢がなかったのである。

 …結局はラファイナ本国のいいように動かされている。志とは裏腹に、これまでと大差ない状況に置かれていたのである。
 そして今も、ラファイナでは変わる事なく奴隷文化は続いているのだ。



「いいかね? 水竜信仰という教義は世界の全てではない。そして全能でもない。現実には様々な理由で奴隷となる者達がいる。そして命を落とす者も多いのだ。お前はそれを知らねばならない。」
「…………………。」

「残念ながら世界は平等ではないのだよ。そして陛下が奴隷解放を推し進めるようとも、そう簡単に変わるものではないのだ。実現するには膨大な時間が掛かる。」
 女王イメルザが奴隷廃止を訴え、即位よりの15年間、その活動を行ってきた事は広く知られている。その実、廃止論を利用し、政権維持の傷害となる貴族をその手で葬ってきた事もガクリフには分かっていた。

 それでも、その公開処刑というパフォーマンスにより、奴隷使役に対する風当たりが若干ながら強まったのも事実である。
 しかしそれだけでラファイナ全ての奴隷が消えてなくなるほど世界は甘くない。売買から利益を生み出す商人も多いのだ。金の力は権力者を捻じ曲げる手段にも成り得る。イメルザが直接的に手を下しても、追求されずに済む抜け道は潰しきれるものではないのだ。

 だから、王都をほんの少し離れれば、その脅威はないも同然。
 いまこの街で奴隷売買が公然と行われているのが、その証拠である。


「…イメルザ陛下が心血を注いでくださろうとも、いまや公然の文化となっている奴隷売買は、簡単に静止する事はできない。我々のような司祭という立場であれば、そういう理由を踏まえて黙認する事も必要なのだ。それをお前には理解してもらいたい。」

「───黙認……? 黙認って! そんな事が許されるわけがっ!!」
 あまりのギャップと非道さに、大人しいマリアが珍しく声を荒げた。それは彼女が純真だからこそ、差別のない世の中を当たり前のように思っていたからこそだ。しかし、大司祭ガクリフは口調を変える事もなく続ける。

「お前の憤懣ふんまんも分かる。その気持ちは私も同じだ。…しかしな、ラファイナの中心、その水竜神殿の大司祭という役職を持つ私でさえ、この光景の前では無力だ。現状を前にして何の力も持たない。だからマリア司祭、それを心に留めておきなさい。ラファイナとはこういう国なのだ、と。」

 ラファイナ発展のために狩り出された奴隷達。それはこの国が抱えるもっとも大きな問題である。人が人として生きる事を許されない差別。それが公然と行われる事の非道。しかし、それを当然だと肯定しているのが現在のラファイナ王国なのである。


「……私は…世間知らずだった、という事なのですね…。」
 マリアにはこれが正しいとは思えない。これが当たり前だと言われて納得できるほど、彼女は汚れてはいなかった。だから、いまここにあるこの光景が本当のラファイナという国なのだ、と知って涙を流す。いまの彼女には、それ以外に感情を顕わにする手段がない。ここでガクリフ大司祭に声を上げても、それが解決されるわけでない事が理解できるからだ。

 仮に、いまこの場で神殿の権力を用いて売買をやめさせたとして、それは目の前の問題が棚上げされただけで、根本的な解決にはならない。ラファイナに根付いてしまった奴隷文化を払拭するには、もっと大きな行動と、時間が必要である事はマリアにも分かる。

 しかし、マリアはそれを放置しておけるほど、非情にはなれなかった。
 頭では理屈を理解できていても、今この場で苦しむ人々を放置する事ができなかったのだ。

 マリアは近くでせた子を案じている女性へと近寄った。

「あの……、これを…。」
 それは旅行用の携帯ビスケット。小さく、あまり味は良くないが、カロリーだけは摂取できる食料だ。いまの自分には何もできないが、ほんの少しでも役に立てれば、と彼女へと渡す。

 女性は一瞬の躊躇ためらいを見せたあと、ひったくるようにビスケットを手に取り子供の口に当てた。しかし、子供は口を開く事もなくピクリとも動かない。それでもその口に押し込もうとした女性の横から、別の手が伸びてきた。隣に居た男が手を伸ばし、ビスケットを奪ったのだ!

「か、返せっ!!」
 女性は声を上げて取り返そうとするが、今度は別の腕が男へと手を伸ばす。マリアがそれを静止しようとした矢先、周囲に居た者が目の色を変えたかのように、今度はマリアへと手を伸ばす!

 もっと寄こせ! 食料を寄こせ!と無言のままで手を伸ばしてくる。その様は、まるで砂糖にたかる蟻のようだ。
 その奴隷達が持つ圧力は脅威となり、声も出せなくなるマリアは、後ずさりをしていた。

 無言の要求をただ怖いと感じて、彼女自身も声を失う。

「オラ! 何やってやがる! このクソどもが!」
 すると監視の男が何人が騒ぎを見つけてやってきた。そして、まったく躊躇う事もなく剣を振るった!
 それは手近な一人の男へと命中し、頭から血を流して動かなくなった。それに恐怖した奴隷達は怯えを顕わにして元の位置へと戻っていく。人が一人死んだというのに、誰もそれを気にしない。奴隷達にとっては、自分でなければそれでいいのだ。他人の死を考えていても腹は満たせない。

「どういうつもりだ! こんな場所でエサ撒いてんじゃねえ! おかげで一匹死んじまっただだろうが!」
 監視の男はいまだ呆然とするマリアへと食ってかかった。商品が死んだ事を怒っているのだ。…奴隷は消耗品で死ぬ事はどうでもいい事だが、売る前に死なれては商売にならない。自分達の給料にも響く。別に死をいたんだわけではない。

「私の連れが失礼をしたな、これは詫びだ。」
 ガクリフはそう言うと、監視の男に金を握らせた。100G金貨を2枚。この男らの二月分の給与にもなる大金である。奴隷一人が1Gで買えるいまの時代、これほどの大金ともなれば文句など出ようはずもない。

「こ、こんなにか?! ヘヘ…、俺もこういう事なら大歓迎だ。もちろん死体も片付けておくぜ。」
 監視の男は上機嫌で戻っていった。ガクリフは未だ放心しているマリアの手を引き、この場を離れる事にする。そのまま、宿がある街の中心へと足を向けた…。

 彼にはこうなる事がわかっていた。
 マリアがこういう行動に出るのではないかと、ある程度は予想していた。

 それは彼が彼女を、水竜神殿の司祭へと格上げした理由にも関わっている。
 …そう考えながら、無言で道を進むガクリフの背中から、ほどなくマリアの声がした。

「…ガクリフ大司祭、私は日の当たる場所で生きてきました。ただ無知な者として、それを考える事もなく。…私は愚かな人間です。」
 自身の心が大きくかしいでいたマリアの声は、深い悲しみに囚われている。同じ人間が、なぜあのように扱われ、追い詰められなければならないのか。そして自分がした事の意味と結果に、大きな責任を感じていたのだ。

「あの惨状を理解し、黙認しろというのであれば、私は司祭という大役を承るわけにはいきません。」
 涙を流し、心を痛めるマリアは、ただ辛く悲しい想い、そして自身の行った事への後悔の念に囚われている。元々、自分には司祭などという大役が出来るはずがないと思っていた。そしてそれは予想以上に辛い試練となって彼女を襲ったのである。こんな弱く罪深い自分が、司祭などできるはずがない。
 …しかし、ガクリフはそれを突き放すかのように答えた。

「…マリアよ、無知というものが司祭を辞する理由になると思うのなら、それはお前の傲慢ごうまんだ。」

「どうしてですか?! …私は今まで教義を学び、広める事だけが正しい道だと思っていました。だけど! だけどそれは…視野の狭い物の見方だと理解したのです! 自分の軽率な行動が人の命を奪ってしまった。…そうであれば、司祭という大きな責任の伴う立場になど、立てるわけがないじゃないですか!」
 そう、取り乱す未だ幼さと未熟さを残すマリア。ガクリフはその震える肩に手を置き、いつものように優しげな瞳で語った。

「マリアよ、己の良かれと思った行動が人を苦しめてしまったというその気持ちはわかる。しかし、それで逃げて終わりにする事で解決になるのかね? このまま見なかった事にして、それで彼の命を散らした責任が取れるのかね?」
「…………………いえ…。」

「それを踏まえて考えてみなさい。司祭という役目になるには何が必要なのかを? 教義を知っているだけならば、誰にでもなれる職ではないのはわかるだろう? では、何が必要なのか。どういう者が司祭になるべきなのか?」

「それはな、事実を知って、その上でどうするのかを考えられる意思を持つ者なのだよ。司祭はそれ以上の事を考えられる者がなるべき役目なのだ。…お前はいままで事実を知らなかった。しかし、いまここでそれを知った事で、いまの自分が何をでき、何ができないかを考えられるだろう? …大切なのは、無知を否定する事ではない。自分の状況を見て、その上でどう動くことができるのかを考える事だ。」

「いまここには、お前の言う日の当たらない者が大勢いる。そして我々には、今この場ではそれを正す事はできない。しかし司祭となった事で、その捻じ曲がった文化が間違っている事を世に広め、人々の意識を変えていく、そういう活動はできるのではないか? 救われない者を直接的には救えなくとも、間接的に人々を動かす事が出来はしないだろうか?」

「お前を司祭に格上げするのには、何も年功序列での昇格ではないという事を忘れないで欲しい。マリア司祭、お前には私達のような老人には出来ない事ができるのではないか、…若さゆえ意思と行動、それを期待した上での人事なのだ。誰でもない、お前だからこそ司祭に相応しいと我々は決めたのだ。」

「このラファイナは病んでいる。そして、日の当たらない者を救うためには志が必要なのだ。」





「…いまはただ考えなさい。ひたすらに悩みなさい。自分がしたいと思う事、それをどうしたいのかを。」



 大切なのは、自分が何ができるのかを考えられる事。
 マリアにはそれを意思として行動する事が出来る「司祭」という役目が預けられた。

 だから、マリアは始めなければならない。

 奴隷となって苦しむ人々のためになる行動を。この世界に向かって、その意思を広げる努力を。

 これは彼女が挑むべき戦いなのだ。
 人々がへだたりなく生きる事ができるその世界へと導くための。
















 ガクリフはマリアを宿に置き、自分は用事があると出掛けた。
 彼が向かったのは、人気の少ない裏路地である。

 日が差し込まない道は暗く、薄汚れた壁に、腐りかけた木製の家が立ち並ぶ裏通り。彼はここに用があった。

「ヤア〜! 大将さん、おヒサしぶりぃ!」
 そこへ現れたのは、恰幅のいい、緑色のタキシード姿の男であった。短めの杖をくるくると振り回し、いかにも陽気そうな表情でやってくる。裏通りとは似つかわしくないその風体は完全に場違いなものである。ひと目見たら忘れない、そういう濃さを持った男であった。

「相変わらず目立つ男だな。」
「ハァイ、それはもう自覚してますんでー。」
 目立たないよう目深にかぶったローブ姿のガクリフに対し、まったく姿を隠さない男。これではいくらガクリフが変装をしていようとも台無しである。…しかし、奇妙な事に周囲に人影はない。裏通りだから、というには静かすぎた。

「また魔法を使ったのか。…やはり不思議な男でもあるな、貴殿は。」
「それはもう! ハァイ、そういう商売ですんでー!」
 いつのまにか霧が出ていた。気温が低いわけでもなく、真っ昼間だというのに、だ。…しかし、足元を流れる霧はガクリフの知る常識的なものと違う。わずかに魔力を帯びているのだ。そういう魔法なのだろう。ただし、広い魔法の知識を持つガクリフですら、人払いの魔法など聞いた事がない。

 ガクリフはこれまで、この男と2度の接触をしているが、その度に彼の知らない特殊な魔法を使う。目の前の男、ナトゥスには驚かされる事ばかりだ。その意味を込めて、この恰幅かっぷくのよい男の事を、奇術師と呼ぶことにしている。世に知られていない魔法を多く持つ、神出鬼没の奇術使いのような者という意味でだ。

「それはともかく、調査の結果を伺いたい。」
「オーケーです。そりゃあ苦労したんです。ハァイ、こちらでー。」
 奇術師ナトゥスは懐から封筒を取り出した。その中には、紙の束が十数枚ほど入れられている。ガクリフは早速それに目を通す。そこに書かれているのは、ラファイナ各地で起こった奴隷と貴族との事件であった。奴隷が反乱し、貴族を襲ったという内容のモノが、計5件ほど記されている。

「ワタシが調べたところによりますとー、ほっとんどが南ラファイナ周辺ですわねー。そんで北ではさっぱり暴動ナシ。北ってのは、奴隷が調教が行き届くおりますなー、ハァイ。」
「…そうだろうか? 私にはそう思えないのだが…。」
「アリャ! 大将さんがそう言うんじゃ、そうなのかもしれませんわねー、ハァイ。」

 ガクリフはナトゥスの報告を耳に入れながら、最後の用紙に書かれた事件に目を向けた。それは盗賊が奴隷商人の護送馬車を襲ったという事件だ。通常の賊ならば、商人が扱う物資目当てに行動を起こすものだ。金にならなず、荷物にもなる奴隷になど手は出さない。
 しかもメイザー周辺は有力商人が多く集まっているため、王国兵士も警戒している区域。普通で考えればこの一帯での襲撃はリスクが高すぎる。

「オヤァ、大将さん、いいトコに目をつけましたねぇ、ハァイ! それはですねー、生き残った奴隷から話を聞いたところによりますと、襲撃した賊というのは大柄の男が一人だったそーで。…なんでも、その男が剣を振るうと人や物が燃えた、とかいう話でしたねー。ハァイ。」
 報告書には、同じ手口での犯行が2件記載されていた。ガクリフの予想が正しければ、これは奴隷というものに執着し、解放もしくは人探しをしている可能性が高い。また単独犯ともなれば、相応の事情があるのだろう。

 そして犯行時期が3日前、そして場所はここから近い。…このメイザーの北部である。

「ナトゥス君、また難儀を言わせてもらうが…、この事件の犯人と接触できないだろうか?」
「またお助けになられるんで?」

「そういうつもりではないのだがね。…ただ、たった一人でこれだけ危険な行動を起こすくらいだ、何か事情があるのだと思う。もしそうであれば話を聞いておきたいのだ。…それにまた犯行が行われるとすれば、雇われている御者や傭兵達も命を落とすかもしれない。…私の傲慢だよ。」
「イエイエ、広いお心、痛みいりますナ。」

「出来るかね?」
「ハァイ! それはもう便利屋としては大歓迎ですよハァイ。大将さんのおっしゃる通りに出来ます。ただし、お代金はすこっち、ほんのすこっち頂ますがね。」
 するとナトゥスは、懐から横長の四角く薄い木枠に、いくつもの玉が入った道具を取り出した。商業の国と呼ばれる隣国カルバレッタで使われているソロバンという計算道具らしい。中にある玉を動かす事で計算をするのだとか。

「…よよよいよい、と。こんな金額でどうでしょーかね? ハァイ! ズバリ破格の3200Gってところです。しか〜し今月はサービス月ですので、割引して3000Gを切ります! なんと驚きの価格! 2998Gでいかがでしょうか? 是非ご検討ください! ハァイ!」

「構わない。それでお願いする。」
「ハァイ! 毎度ありがとうゴザイマスです!」
 もみ手をして話を聞くナトゥスは上機嫌でその困難な仕事を請け負った。普通で考えれば、人を殺す盗賊の居場所を調べて、殺される可能性もある仕事などを請け負う者など居ない。しかし、彼はそうしたリスクすら気にせず、しかも本当の破格でOKする。
 一般庶民からすれば3000Gは大金だ。1年以上は楽に暮らせてしまう大金である。しかし、水竜神殿の最高位であるガクリフにとっては、小銭にも満たない金額だ。彼自身が望まずとも、様々な暗黙の了解を見てみぬ振りをするだけで、収入は山のように入ってくる。

 ガクリフはそういった穢れた金を有効に使いたかった。さきほどマリアが手を差し伸べたように、自分も全力で奴隷を救いたいと願っている。しかし、彼の立場がそうさせてはくれない。…だから、このように裏で人を雇い、秘密裏に動いているわけだ。

「ああ、そうだナトゥス君。出掛ける前に一つ聞いておきたい。…キミは、イメルザ陛下の奴隷解放宣言がこのラファイナを変えている感覚を肌で感じるかね?」
 イメルザ即位より15年。それがラファイナを少しでも変えているのか? 誰でもいい、ガクリフは他人の率直な意見を聞いてみたかった。

「フムー、弱りましたね。ワタシはそういう個人的な意見は言わない商売なんですがー。」
「では情報という形での現状報告として教えてくれ。役に立たなくとも構わない。」

「ハァイ、そういう事でしたらば。では、奴隷解放計画の進捗しんちょく状況を報告しまっす。宣言から現在に至るまで陛下の行動にブレはなく、地道ながらも着実に成果を上げておりました。公開処刑というパフォーマンスにより、認知度も増しております。そのための予算もかなり費やしておいででした。ハァイ。」
「過去形、か。」

「左様です。過去形なのでス。ハァイ! 先月よりその予算が古代文明調査に移し変えられておりまス。何かお考えでもおありかと。ハァイ!」
「…古代文明……調査…だと?」

「ハァイ! 以上が報告でゴザイマス。」
 ガクリフの予想を外れた報告であった。予算を費やす対象がなぜ古代文明調査に変わったのか? ならば奴隷解放計画は立ち往生になるという事なのか? 彼の脳裏には、イメルザがなぜ行動を変えたのかが、まったく理解できないでいた。
















 ラファイナ中東部 メイザー地区北部 山岳地帯───


「うわあああ! 化け物だぁ! に、逃げ───!」
 その瞬間、男の首は斬り飛ばされた! それが倒れる間もなく、攻撃は次の標的へと向かう。  それは赤く禍々まがまがしい光を帯びる剣、刀身は炎に包まれ、触れるモノを熱で焼き斬る。

 そしてそれを扱うのは、豪腕を持つ巨漢の男。身の丈2メールを超える筋骨逞しい身体は、重さなど存在しないかのように素早い。まさに野生で研ぎ澄まされた獣のようであった。

「滅っせよ! 愚かなる痴れ者ども!」
 咆哮ほうこうを上げる巨漢を前に、護衛の傭兵が次々と殺されていく。ある者は頭を吹き飛ばされ、ある者は剣ごと身体を引き裂かれ、一方的な殺戮劇さつりくげきは続いていた。その圧倒的な戦闘能力の差は、男の驚異的な身体能力だけのものではない、その手に握る「炎の宿る剣」によるものだった。

「我がビダラを……、スクナを───!!」
 巨漢のその言葉に反応したかのように、炎を纏う剣がさらに燃え上がる。まるで男の魂を汲み取り、それを燃焼させているかのようである。体制は低く、地を這うように駆ける炎の獣と化した男は、すでに戦意を失った傭兵どもにも手を下す。一人として逃がすつもりはなかった。
 炎の剣が振るわれる度、何もかもが破壊されていく…。


 その苛烈な戦闘の中で男の脳裏に浮かぶのは、ビダラと呼ばれる部族を束ねる長の言葉だ。

「───我らが部族の勇者たるのはお前だ。ヴォパルよ。ビダラ・オーマの導きは最も強き心を備えた者が受け継ぐ慣わし。老いた我には部族を率いる力はない。お前という新しい力が必要なのだ。」
 老齢の男は幾重いくえにも毛皮をいたコートをまとい、片膝を立てて座っていた。よく見れば体中に色々な紋様が描かれている。赤い色素の出る花から色を抽出し、自身で塗ったもののようだ。

 そして正面の、まだ若い男へも同じような紋様が描かれていた。老齢の男からすれば少なく、片膝を立てて座ってもいない。

「長よ、今一度聞いてくれ。我にはビダラの加護はないのだ。大いなる聖炎、ビダラ・オーマは部族が認めた勇者だけが手にする事を許される。それは誰でもない長から幾度となく聞いた。」
「そうだ。この地で暮らすことを選んだ我らが部族は、ビダラ・オーマが力を使い、危機の全てを乗り越えた。それも全てはビダラ・オーマを手にした勇者が成し得た事。そして我は、そなたにその資格があるという夢を見た。これこそ大いなる聖炎の御告げである。」

「…いや、長よ。それは正しい御告げではない。我には勇者の資格などないのだ。」


 ───彼、ヴォパルは「ビダラ」と呼ばれる赤銅色の肌を持つ戦士の一族に生まれた。
 その部族は平原と森、そして山と共に生きる自然崇拝者達である。

 そして何よりも、炎を最も重んじる彼らは、炎を自然の支配者として敬い、余計な破壊を生まぬようにと多用する事を深く禁じていた。炎は破壊を生むもの。そして何も残さない。しかしそれを理解し、共生する事で破壊を再生の力として扱ってきたのだ。

 動物を焼いて空腹を満たし、野を焼いて畑をうるおし、灯りとする事で、自然と人との折り合いをつけながら生きていく。
 それがこの部族の生き方である。

 そして”ビダラ・オーマ”とは、炎を宿す神の遣いとして、ビダラの民に崇められる神聖な剣であった。

 代々、長となるべき者がそれを手にする事で統率を得ていた。そして今回、ヴォパルは部族でも誉れある戦士として、長より指名を受けたのだ。事実、戦闘において彼を超える者はおらず、彼自身も人を導く優秀な指導者として愛されていた。長はこの若者、ヴォパルを一族を託すべき勇者だと認めたのである。

 しかし、ヴォパルは一度それに拒否されている。

「長よ、聞いてくれ。…我は兄クバルがビダラ・オーマを受け継ぐ儀式の際、共に試したのだ。しかし兄は全身を炎で焼き尽くされ、我も手ひどい火傷を負った。我はすでに勇者ではないと拒まれたのだ。」



 ───ヴォパルは燃え盛るビダラ・オーマで馬車の鍵を破壊し、乗せられた奴隷達を解放した。
 そして彼らを逃がすと共に、自分の故郷の人間を探した。

「ビダラの者よ! ビダラの一族よ! 居たら答えろ! 我はヴォパル! 戦士ヴォパルだ!」
 しかし、その必死の訴えに答える者はいない。奴隷達は逃げる事だけを優先し、振り向く事もなく駆けていく。

「誰かいないか! ランビス! オウパ! バレンカ!! 誰でもいい! ビダラの戦士よ! いないのかっ!?」
 かつての友人、親しき者の名を叫ぶヴォパル。しかし答えは返ってこない。ビダラの一族は、彼がビダラ・オーマの試練へ出掛けた間に襲撃されていた。ビダラ・オーマが安置されている祠に行くために必要な、たった3日の間に、ラファイナ本土の傭兵が奴隷調達という名目で島に上陸し、村を襲ったのである。

 ヴォパルが帰り着いた時、襲撃が行われていた後だった。
 略奪と共に踏み荒らされた故郷、そして最愛の妻スクナは半裸にされて背中から剣を突き立てられ、絶命していた。

 彼の絶叫は村を包んだ。
 そして決意した。連れ去られた仲間を救い出そう、と。


 だから彼は、急いでほこらへと戻り、ビダラ・オーマを無理矢理に持ち出してきたのだ。



 ───奴隷達を逃がした後、

 残されたのは傭兵の死体と、空になった奴隷用荷馬車が数台、…そして疲労しきったヴォパルだった。
 異常な重さを持つその剣を、筋力に任せて振るっていたからである。

 彼はビダラ・オーマに拒否されている。その剣は、所有者でないと決めた者には、とてつもない重量となって答えるのである。そして炎を纏う刀身の熱は、その者にも及ぶ。
 だから、ヴァパルは剣の柄を握る事さえ苦労している。防熱の手袋をめて無理矢理に握っており、そして攻撃をしながらもその灼熱により身体を焼かれているのだ。さらに剣とは思えない程の異常な重さとなって障害となる。ビダラ・オーマは全力で彼を拒んでいるのである。剣は彼がビダラの者であろうとも、まったく受け入れる気がないのだ。

 ヴォパルは自分を呪った。
 そしてなにより、勇者でない事を呪った。ビダラ・オーマが使えない事ではない。

 もし自分が真の勇者であれば、村は襲われなかったかもしれない、と。
 勇者でなかったから、自分が村を守れず、剣も使えないのだ、と。


「いたぞ! あそこだ!!」
 その時、傭兵とは違う一団が駆けつけてきた。この周辺を哨戒していた王国兵士達だ。奴隷達の行動の不審や、これまで2度の襲撃により警戒されていたのだろう。最初から周辺に張っていたようだ。

「くっ───! ここで捕まるわけにはいかぬ!」
 ヴォパルには同胞を救うという目的がある。ここで捕縛されてしまえば、それを叶える事はできない。もちろん、部族の誇りとも言えるビダラ・オーマも奪われてしまうだろう。そんな事はあってはならない。

 しかし、身体は言う事を聞いてはくれなかった。体力の消耗と火傷によるダメージ、そして何よりもその剣自体の重さが、彼を地に貼り付けてしまったかのように縛り付けている。

「ビダラ・オーマよ、頼む! 我が部族の同胞がため、我が部族の復讐がため、いまだけでいい! 我に力を貸したまえ!」
 ヴォパルは願った。それ以上に出来る事はなかった。
 しかし剣は少しも変わらない。勇者でない者に力を貸すつもりはないとでも言うかのように、その熱も、その重さも、まったく変わる事がなかった。

 そうやってヴォパルが悪あがきしている間にも、兵士の数はどんどん増えている。すでに10人を超えた。彼らは次々と現れ、そして円を描くように周囲を包囲していく…。勇者でない彼には、それを突破する起死回生の手など、あるはずもなかった。




「ハァイ! お困りですか? お困りのようですねぇ。え〜、ワタシはですね、貴方に用事がありまして参った者です。いま、すこっちお時間、よろしいですかね? ハァイ。」
 突然だった。背中の方から場違いな声が届いた。…振り返ると、そこには恰幅のよい男が手をもみながら笑顔を浮かべていた。ヴォパルの見た事がないタイプの人間だ。少なくとも、ビダラにはデブなど居ないし、こういう特徴的な口調の者も居ない。

 気がつけば───、周囲を取り囲んでいたはずの兵士達の姿がない。どういうわけか霧が出ており、濃い霧が全てを覆い隠しているかのような状況となっていた。

「お前は、何者だ……?」
 ヴォパルには、目の前にいるその男が、兵士よりも厄介な存在であるという感覚を肌で感じていた。得体の知れない術を使う男、愛想笑いを浮かべるその男を、戦士の本能が警戒していたのである。

「ハァイ! ワタシはナトゥス、…という便利屋でして、すこっちの料金を頂ければ依頼をこなすという商売をしております。ハァイ。」
「その便利屋が我に何の用だ?」
 警戒心は消えない。しかし、この男から敵対しようという意思は感じられなかった。それが油断する理屈にはならないが、現れた意味を問うくらいの価値はあると判断する。



「実は実は、今日は貴方様をお迎えに参ったのです、ハァイ。とある方よりの依頼でして、貴方とお話がしたい、と申されまして、ハァイ。…いえいえ、ワタシはともかく、その方はご立派な方ですよ? 貴方の仲間探しを手伝ってくださるでしょう。」
「……なん、だと…?」


 ───不幸を背負った人間、そして不幸を背負おうと覚悟する人間。
 それは近しい考えを持つに至るまで、そう時間はかからない。


 その架け橋となり、動く男は、ただ愛想笑いを浮かべていた。





NEXT→ 第一部・03−05 「水竜クーさん、街へゆく」
トップへ戻る